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「魔術」 著:芥川龍之介 感想

冒頭に説明書きをしてから話に進みたい。

これは私がある課題で3つか4つの短編の内、1つを選び、レポートを書いたものだ。

それを深夜にとあるフォロワーさんに送った所、とても褒めてくださった。

人間とは欲に塗れているもので、調子に乗った私はこんな所に載せてしまうのである。

冒頭部分で少し不快に思われる方がいらっしゃったらごめんなさい。

……感想ください。



~ここから⤵︎(一部加筆修正済)~
課題文に選ばれている文豪達は精神を病み、自殺を遂げている。そこから分かるように自殺をするという事は何かしらの要因があったはずだ。

私が選んだ芥川龍之介氏の場合、何に嫌気がさしたのか。それは魔術にも取り上げられているように「人間の欲」だと思うのだ。

作中では主人公に魔術を教える代償として「欲を捨てる」事を条件としている。日本における仏教世界でも出家の「家」は欲の事を指している。欲から脱することを出家と言う。つまり欲から脱する事でより高尚な存在になると考えられていた。それだけ芥川にとって「欲」の存在は人々を卑しめる存在だと考えられていたのだろう。

では、欲から脱する事で魔術を操れるがそれを一体どうして身につける必要があるのか。主人公も金貨を生み出していたが、賭け事に乗せられるまで石灰にしようとしていた。つまり、身に付けたところで何の有用性もない。それなのに魔術を使う理由はあるのか。

ないのだ。「何の意味もない」という事だ。そこに芥川は自身の欲の意味を見出したのではないだろうか。

また「魔術」という点で、芥川は読者自身に魔術をかけている。この話が書かれる3年前、谷崎潤一郎氏が「ハッサン・カンの妖術」という作品を書いている。作中のマティラム・ミスラ君はハッサン・カンから婆羅門の秘法を学んでいる。この作品はその谷崎の作品のオマージュとでも言えるだろう。作中の「もう皆さんの中にも――」の下りからその名残が伺える。この工夫により読み手は「そういえばそんな人もいた」と錯覚してしまうのだ。架空の物語の登場人物を恰も「実在する」と魅せたこの作品自体もまた魔術かもしれない。

人間は欲に塗れている。欲がないと生存する事が出来ない。一般的な必要欲として睡眠欲、食欲、財欲などが挙げられるだろう。しかし、必要欲を満たしたところで日々私たちは生きるだけだ。生きて社会を回す歯車になっているだけだ。生きる為に欲を満たす。そこに意味はあるのか。欲を満たしたところで明日が来るだけなのである。芥川はそんな「欲」の存在に疑問を抱いたのだろう。

よく「無知の知」というソクラテスの言葉を聞く。しかしこの作品の場合は「無欲の知」と言えよう。つまり、「無知の知」の意味に倣うとこう解釈出来る。それは

「人間の欲とは神と比較すると無にも等しいのである」

という事だ。この作品はそんな「欲」の存在を表現したかったのかもしれない。

全ての欲を捨てきった作中のマティラム・ミスラ君はきっと人間ではないのだろう。人間のかたちをした何かしらなんだと私は仮定する。また、人間である以上、私たちは魔術を使えない。欲が存在する限り手品程度の騙しぐらいしか出来ない。