言いたいことを言ってるだけ

今の所、毎月9のつく日に更新したい。叩かれるの怖い。

自意識がクライシス迷子

今年の2月に29日があってよかった。

さて、当ブログで1番アクセス数が多いワイテルズさんの企画「Qualia Crisis」について勝手に考察するシリーズ(そういえばタイトル特に決めてなかったな笑)第3弾をやって行こうと思い……

たかったんですけど残念ながら今回は第3弾ではありません!本当は今月中にあげたかったんですけど意見がまとまってないです。本当、遅筆ですみません。3月に出せたらいいな~と思っています。

ところで皆さん、Qualia Crisisって企画タイトル単純に気になりませんか?Qualia Crisisの概要欄ってあれどういうことなんだ?とか!

……入りがアホそうで仕方がないのですが笑。如何せん慣れないもので。というのも以前から概要欄について考察してみたかったんですよ!なので今回はQualia Crisisという企画そのものについて考えていけたらなって思います!

⚠️本記事はワイテルズさんと一切関係がございません。従って動画のコメント欄等、関係の無い所でこちらのことを書くのは辞めてください。また、他掲示板等にこのブログのURLを貼り付ける及びその他迷惑行為になる真似はやめてください。何か問題が発生した場合は本記事のコメント欄にお寄せ下さい。

このブログ記事はWhite Tails【ワイテルズ】さんの企画「Qualia Crisis」を視聴していることを前提として書いています。もしまだ観ていない方がいらっしゃいましたら視聴後にこの記事を読むことをおすすめします。何なら記事を読んだ後に再度視聴、そのままゲーム実況動画に移動し沼ることを強く推奨しています。記事には戻ってこなくて結構です。本ブログはアカデミックな裏付けがされておらず、全て自分の妄想である可能性が大いにあります。

再生リストのリンクを貼ろうとしたら無かったので動画別にリンクを貼ります。好きなテーマからお選びください。

第1弾「【QualiaCrisis】不老不死への探求の果てで死の定義に迫る!! 」
考察:ワイテルズ紹介はしてない不老不死について - 言いたいことを言ってるだけ

第2弾「【Qualia Crisis】科学を哲学する;我々の信念を覆すパラダイムシフトとは!?」
考察:文系から見た科学哲学の話。 - 言いたいことを言ってるだけ

第3弾「【Qualia Crisis】人工知能は意識を持ちうるか?」
考察:人工知能は思考するのか? - 言いたいことを言ってるだけ

追記(2020.3.2):再生リスト追加されてました!!

まず、「Qualia Crisis」という企画タイトルについて考えていきます。

クライシスといえば英語で「危機」って訳されますよね。高校生以上の方だったら意味も含めて知っている方は多いのではないでしょうか?少なくともクライシスという言葉を聞いたことがない人は少ないと思います。

ですが、「クオリア」という言葉は日常生活でそうそう使う機会ないですよね。まずはWikipediaで意味を見ていきましょう。

クオリア(英: qualia〈複数形〉、quale〈単数形〉)とは、心的生活のうち、内観によって知られうる現象的側面のこと[2]、とりわけそれを構成する個々の質、感覚のことをいう[3]。日本語では感覚質(かんかくしつ)と訳される。この現象は主観内にのみ現れ、客観的な言語化や計測によるデータ化は行えない。従って、クオリアの説明に科学的方法が通用するかどうかも不明である。
引用元: https://ja.m.wikipedia.org/wiki/クオリア

感覚質?どういうこと?と思った方が多いと思うので簡単に説明します。

すごくざっくり言うと「アレ」です。

というのもまだクオリアの存在については説明することが出来ないんです。存在が証明されていないので。

例えばこの文字の色って何色ですか?

多くの人は「緑」と答えるでしょう。ですが、他の人と同じ色を見ているって言えますか?また、色盲の方は何色に見えているでしょう?

クオリアとはあなたの心や意識の中にしか現れない知覚現象なんですよ。だから証明も出来ない。

私達は感覚を共有することが出来ません。「生きている」という現象すら幻かもしれない。この文章を打っている私も本当は実体を持たない、死を知覚していない幽霊かもしれない。これこそチューリングテストをやらされていることに気づいていないAIかもしれない。

つまりQualia Crisisとはあなたのその「感覚」を崩すぐらいの危機感を与えてやるぜ!みたいな。実際スマイルさんのこの企画をきっかけに色んな物事を考える様になった人が多いと思います。

私がクオリアを初めて聞いたのはぼくのりりっくのぼうよみの楽曲でした。確かスマイルさんも前にTwitterで言及してましたしね。スマイルさんもぼくりりさんの影響強いんじゃないですか?すっとぼけとこ。

次に概要欄について考察していきましょう。

人の世は夢です。見えない仕組みに動かされ、倫理の彼岸の果てを見る。 
あらゆる論理が幻想であるならまた、感情すらも支配することが可能であるということ。真理への漸近によってすべての事物から神性が失われ、世界は本質的に無価値なものとなった。科学が解き明かした魂の秘密を、人類は未だ発現できずにいる。絶対的な正しさの拠り所を、人々は虚構の中に求めるしかないのだろうか。神の似姿からゼンマイ人形へと為り果てた人間たちに救いを与えるのは何者か。罪を赦された代償に失ったものは何か。
我々はいかなる観念的枠組みをも転覆させる必要がある。遍在する自意識の臨界点!
知的好奇心の扉を開き、形而上の墓穴を穿つ、極上の見世物ここに開幕。

※この動画の内容にはアカデミックな裏付けがなされていないものがあり、全てがスマイルの妄想である可能性があります。
 本当に気になったことは自分で調べたり、信頼できる大人に聞いたりしましょう。

引用元:Qualia Crisis概要欄

まず最初に私が気になったのは「人の世は夢です。」という文言。なんだか「酔生夢死」という四字熟語の様な考え方だなと思いました。

酔生夢死とは生きている意味を自覚することなく、ぼんやりと無自覚に一生を送ることです。酒に酔ったような、また、夢を見ているような心地で死んでいく意味からこの言葉が生まれました。あれ、ちょっと意味合い違くない?と思われる方がいらっしゃるかもしれません。確かにこの文脈でいくと人の世の中を夢と捉えている訳でぼんやりと生きているという訳では無いですよね。ですが、私は人の世は案外夢のようにぼんやりとしたものではないかと思うのです。

第2弾で触れられていた「パラダイムシフト」という言葉の様にその時代の常識はどんどん変化していきます。万物は流転します。服だってそうだし言葉だって変わってきましたね?死んでいった言葉もあるし、新たに生まれた言葉もある。100年前の人に「これからタピろ?」なんて言っても通じないでしょう。逆に100年後の人に同じことを言ったら果たして伝わるでしょうか?ひょっとしたらこのブログも100年後にはただの怪文書になっているかもしれません(コラ、今も充分そうだろって言わないの!)。

この様に世の中の定義って曖昧なんですよ。その時代ごとに役割があると考えてもいいと思いますけどじゃあ「世の中」って何?って説明求められたら結構キツくないですか?

ちょっと話が逸れるんですけど暗黙のルールを暴いていくのが今の時代のテーマなんじゃないかなって私は思います。具体的な例をあげるとTwitterで「皐月上がりとかいう慰労会があってみんなで作った作物をみんなで調理して作るっていうよくわからん風習だからレストラン行って済ませたわ」という内容のツイートが流れてきました。(もっと丁寧な文章でした。改変してすみません)この風習には元々「その地に伝わる伝統料理を継承していく」という目的があったのではないかと推測しました。しかし、その風習そのものが形骸化しているのならば無理に形式美にこだわる必要は無いと思います。そもそも「歴史を残す」という行為にすら疑問を感じています。

志賀直哉の閑人妄語という作品にこの様な記述がありました。

私は自然に亡びるものは亡びさした方がいいのではないかと思った。(中略)私はそれよりも、それらを保護し、保存せねばらならぬという事で、生きた人間が負わなければならない負担を考え、自分はそういう役目には廻わりたくないものだとつくづく思った。
引用元:閑人妄語

確かに歴史を紡いでいくのは大切な行いではあります。それこそ同じ過ちを繰り返さないように。歴史学は否定してはいけないと考えています。しかし、「残す」という行為に意味を持てない事象にまで「残す」選択を強いていたら?果たしてどうでしょうね?これからは残すモノを選択して行かなければ地球という器もいっぱいになってしまうんじゃないかって思います。

概要欄の考察に戻りますけどその時代ごとの見えざる手(常識)に踊らされて人間の意義を知っていくんですかね。そもそも倫理とは人間関係の理を学ぶ学問です。ほら、物理は物の理を学ぶ学問でしょ?原理を追求するという点では物理と倫理には共通点があると言えるのかもしれませんね。例えば石を水に投げ入れた時、何故水面に波紋が生まれるのかを考えるのが物理で。人に言葉を投げかけられた時に何故心が波立ち苦しくなるのかを考えるのが倫理です。今のは私が好きな漫画の引用なんですけどね。そう考えると心に到達点はないと思うんですよ。誰かに言われた言葉にある時は傷つき、ある時は救われ。その関係性に名前をつけることは可能だけれども彼岸なんて無くないかって私は思います。

考察じゃなくて意見になっちゃってますけど続けます。真理って結局は人間が作り出した神話でしかないんじゃないかって考えていて。

アリストテレスは人間を「ポリス的な動物」だと定義しました。どういうことかと言うと自分自身の完成を目指しつつも社会を形成することで完成に至るという考え方なんですけど。別に個人は社会の歯車の一部に過ぎないって言ってる訳じゃないんですよ。というより人間以外にも社会を形成する動物普通にいますしね笑!?

要は真理や正しさは結局その個人が作っていくものではないかと私は考えています。それを社会の中に少しづつ組み込んでいくことで社会って形成されるんじゃないかって。

「正」という漢字は「一」と「止」という漢字で構成されてます。つまり一回立ち止まって考えた結果がその人の正しさであり正義なんじゃないかって。だからその人が育った環境など様々な要因によって思考は変わってくるでしょう。ある人から見たらその人の「正義」は「悪」に見えるのも必然です。絶対的な正しさは個人の中にしかないんじゃないですかね。科学は世界を知る一つの手段でしかないですよね。

社会に価値を持たせるのも無価値にさせるのも人間の手でしか行えないです。何故なら社会の中に人間以外の動植物は全く組み込まれてないんですよ。自然保護も全て人間の視点でしかないなって。

「神の似姿からゼンマイ人形へと為り果てた人間たちに救いを与えるのは何者か」という文章から私はセカオワさんの曲を連想しました。

僕の知っている「現実」がどうか嘘でありますようにと
神様の「形」をした「人形」に祈るんだ

引用元:illusion/SEKAI NO OWARI

この歌詞の何が面白いって人形って元々は神様とかそういう目に見えないモノを象った物なんですよ。なのに神様の形をした人形ってひょっとして神様と崇められている人(ヒトガタ)とも呼べるんじゃないかって。

もちろんFukaseさんがそんな意味を込めてないだろうなというのはわかっているんですけど。スマイルさんの場合は人間全般のことを指しているじゃないかって思っていて。人間が最上の動物、神だという神話が終わった今、何を救いに生きればいいんですかね。

私は「思考」だと思います。思考することで私達は飽くなき探究心を満たし、人間を、個人を完成させていくんじゃないですかね。

なんかこの考察って書いてて思ったんですけど「土管がドッカーンというギャグは土管とドッカーンという音の響きを掛け合わせたモノである」みたいな寒い説明をしている様なものじゃないですか?ひょっとしてギャグに説明つけようとしてます?

え?

~蛇足~
なんか、最近自分の意見をこうつらつらと書いていていいものか考えてしまう時があります。スマイルさんがタグをTwitterで作ってからリスナーさんの意見を一つ一つ読んでみました。自分にはない発想や驚かされる視点を持った方を幾つも拝見しました。そうすると人間って単純なもので「こんなのを人様に見せていいものか」と自信を無くしてしまうんですよ。まぁ、あくまでも一個人の考えですし普段引用してる知識とかも道聴塗説の類いでしかない可能性がありますからね。大事なのは自分の考えがあるかどうかなんですよ、究極は笑。

まぁ、要は匿名掲示板とかで叩かないでね!
という話です。終わり。

~参考サイト~
Wikipedia
〇goo辞書

~参考資料~
志賀直哉「白い線」2012年、大和書房

白い線

白い線

  • 作者:志賀 直哉
  • 発売日: 2012/03/24
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)

雨瀬シオリ「ここは今から倫理です。2」2018年、集英社