言いたいことを言ってるだけ

今の所、毎月9のつく日に更新したい。叩かれるの怖い。

自由意志とかいう認識

こんにちは、最近「哲学用語図鑑」という本を読み切った私です。小難しそうかもしれませんが中身はイラストがふんだんに使用された分かりやすい哲学入門書です。面白かった。今回の記事を書くにあたって参考にしたのでよろしければ参考資料のリンクから飛んでみてください。

 

さてさて、本ブログの人気記事であるワイテルズさん企画「Qualia Crisis」(勝手に)考察企画第四弾でございます。

 

~今までの記事~

第〇弾「動画概要欄考察」(自意識がクライシス迷子 - 言いたいことを言ってるだけ

第一弾「不老不死」(企画概要はこちらに載ってます!)(ワイテルズ紹介はしてない不老不死について - 言いたいことを言ってるだけ

第二弾「科学哲学」(文系から見た科学哲学の話。 - 言いたいことを言ってるだけ

第三弾「人工知能」(人工知能は思考するのか? - 言いたいことを言ってるだけ

 

 

⚠️本記事はワイテルズさんと一切関係がございません。従って動画のコメント欄等、関係の無い所でこちらのことを書くのは辞めてください。また、他掲示板等にこのブログのURLを貼り付ける及びその他迷惑行為になる真似はやめてください。何か問題が発生した場合は本記事のコメント欄にお寄せ下さい。

 

⚠️こちらのブログ記事にはネタバレが多く含まれております。ほぼネタバレです。その為、一度動画を視聴してからこの記事を読むことをおすすめします。何なら記事を読んだ後に再度視聴、そのままゲーム実況動画に移動し沼ることを強く推奨しています。また、本ブログはアカデミックな裏付けがされておらず、すべて自分の妄想である可能性が大いにあります。


いつもの通り、両者の意見を載せて間に自分の意見を差し込んでいきます。それでは、どうぞ。(以下、敬称略)

 


【QualiaCrisis】自由意志の有無を大検討!責任は存在しないって本当?その衝撃の結果!!

 

 

1.自由意志とは?

スマイル:Nakamuは自由意志ありますか?

 

Nakamu:あるものだと思って生きている。

 

スマイル:確かに『自由意志があるか?』と問われると多くの人は「ある」と答えるでしょうね。

 

Nakamu:誰かの意見で生きているつもりはない。

 

スマイル:これ考える前に自由意志について明確にする必要がありますね。自由意志とは2つに分けられるよね。「自由」と「意志」と。じゃまず「意志」ってなんだろう?

 

Nakamu:その人の気持ちと行動の原理とか。

 

スマイル:思いとかね。自由意志ということはその人々の思い・行動が自由であるということだね。確かに例えばNakamuは今ここでQualia Crisisを撮っているけどそれはNakamuの自由意志で撮っているからね。

 

Nakamu:それはどうだろう(笑)

 

スマイル:Nakamuでもお前今『自由意志ある』って言っていただろ。

 

Nakamu:最終的な決定権は自分にあるからね。自由意志なんじゃない?

 

スマイル:そこ大事だからね。確かに普通の人に聞いたら自分の行動っていろんなモノの影響を受けるじゃん。でも最終的には自分で判断していると思っているよね、みんな。次、自由ってなかなかふわふわした言葉なんだけど自由って何でしょうね。

 

Nakamu:自由とは一言で表せないよ。

 

スマイル:自由に関して「積極的自由」と「消極的自由」っていうのを考えた人がいるんだけど。じゃあまず「消極的自由」とはその何かが他のものによって制限・侵害されない状態が「消極的自由」なんだよ。Nakamuの財産はNakamuの自由じゃん。それは他人がどうこうできないという意味の自由じゃん。他人から勝手に取られたりすることはないよね。

 

Nakamu:俺がどう使おうが自由、というよりは俺しか使えないという自由。

 

スマイル:逆に「積極的自由」とは今言った『どう使おうが自由』みたいな。じゃあNakamuが自分の財産に関して完全な「積極的自由」があるかと言ったらちょっと違うでしょ。お金で買えないものだってあるでしょ。この2種類の自由があります。じゃあ自由意志の「自由」ってどっちだと思う?

 

Nakamu:『ご自由にパンフレットお持ちください』の自由は「積極的自由」?

 

スマイル:そうだね。なかなかこれは難しいからはっきりとは言えないけど多分。結局最終的な導きたいこととしては「人間って本当に自由意志があるのか?」ということなんだよね。例えば世界のスタンダートはどうなのかというと国連の世界人権宣言一条によると『すべての人間は、生れながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利について平等である』らしいんですよ。世界のスタンダート的には人間は自由だと言っているわけなんです。どうなんでしょうね。でも、これ大事なんだよ。みんな「人間は自由だ」という前提で生きてるんだよ。これがもし崩れるととんでもないことになってしまうんですよ。それはなぜかというと。まず、俺たちが生きている社会というのはだいたいは民主主義社会じゃないですか。じゃあ、民主主義社会とは民主主義じゃない社会とは何が違うのか。民主主義たる所以はその社会の主権者が国民じゃん。民主主義じゃないのは独裁主義とか一人の何たるかが権力を持っている。

 

Nakamu:すごく一存って感じがする。

 

スマイル:例えば昔のさ、王国ってあるじゃん。あれは絶対王政じゃん。王様がその社会の主権者でしょ。それは何でかっていうとその王様が主権者たる権利を神から与えられたって主張しているから(これを王権神授説と言います)王様が主権者っていうのが多かったね。だから、王様がその国の代表であるという正当性があったんだよ。今は国を支配しているのは国民それぞれなんだよね。じゃあ何でって言うと何でだろう。それは国民一人一人が神聖な「自由意志」を持っているからだよ。

 

Nakamu:それは誰かによって制限されるものではない。

 

スマイル:そう。

 

 Nakamu:誰か一人の自由意志によって成り立っているのが絶対王政だとするならばってこと?

 

スマイル:というか「自由意志」を神聖視している。要は今までは神が王に権力を与えていたから王様が支配していて。今は神聖な自由意志をみんな持っているから国民が主権者であるという正当性が与えられると思うんだよね。だからもし「自由意志」がないとするとその民主主義の根底が崩れ去ってしまう気がするんだよね。例えば民主国家下では選挙で代表を決めることが多いと思うんだけど国民全員で話し合ったらわけわかんないことになるじゃん。だから代表を決めましょうかっていうんだけど。その代表を決める過程もその自由意志で選んでいるから意味があるんじゃん。これが無理やり決められていたらそれ民主主義じゃなくねってなるよね。ってな感じで自由意志があるかどうかってかなり大事なわけよ。さらに例えば責任ってあるじゃん。何かしたら責任を取らなきゃいけないじゃん。例えば法律を犯してしまったら責任を取らされるじゃん。でもそれもさ、自由と責任って表裏一体だと思うんだよね。責任取らされるのって自分が自由に何かをしたからこそその責任を取らされるわけじゃん。もし人間に自由意志がなければ責任ってさ取りがなくないか?ってなるんですよね。そのうえで「自由意志」を考えていきましょう。

 

私は現代には「自由意志」が存在する、という考え方です。なぜ、”現代には”という言い方をしているのかは後で説明します。まず、自由意志と聞いて私が最初に連想したのはアダム・スミスの「神の見えざる手」でした。神の見えざる手とは資本主義的な考えの一つで個人の利益の追求は「神の見えざる手」によって自然とみんなの利益に繋がるという考え方です。しかし、「神の見えざる手」と一言で言われても一体どういうことでしょう。

 

例えば1体100万円のロボットを売っていたとします。そのロボットはかなり人気が出たとしましょう。しかし如何せん高い故、庶民には手が届きません。そこで「もっと安価で同クオリティーあるいはそれ以上のロボットが生まれたら一儲けできるのではないか?」と考えるわけです。そして企業努力が生まれもっともっと高めあい、安価でいいものが生まれてくるという仕組みです。これは人々が自由に活動を行うことで経済を発展させていくという自由意志的な考え方と言っていいでしょう。

 

次に消極的自由と積極的自由の話をなされた時、私はとあるCMを思い出しました。それはキャッシュレスカードのCMです。ある男が女性警官(?)に「財布を落としたんですよ」と言う所から始まり、男が淡々とお金について語りだす。男はどうやら財布を無くしていたようだが見つかったらしい。しかし中を改めたら現金がなくなっていた。だが男は二つ財布を持っていた。そして二つとも無くし、二つとも見つかった。そこでもう一つの財布を見てみたらなんと現金が増えていた。

 

男「僕のお金ってことでいいんですかね」

 

警官「だめです」

 

男「どうして?」

 

警官「どうして⁉」

 

男「今僕の財布の中に入っているのに?……自分のお金って誰がどう証明するものなのでしょうか。ずいぶん奇妙なものを信じてません?僕たち。お金って何なんだろう」

 

警官「何なんでしょう」

 

というやり取りで終わります。当時私はそもそもお金はその国や管理している団体が国民などに分配した信用にすぎないのだから自分のとかそういう考え自体が違うよなと。ちょっと論点ずれているなと反感を抱いてしまったので逆にそのCMが印象的でした。ただ今思えばこれは「消極的自由」と「積極的自由」の話をしていたのかもなとも思います。

 

男の財布の中身は全額無くなったが一方は逆に増えていた。それはひょっとしたら現金がなくなった財布から移したものかもしれないし、あるいは罪の意識を感じた犯人が少額財布に入れたものかもしれない。想像はいろいろできますね。でも、そもそもCM内ではどのぐらい増えたかなどの詳細な描写はなされていないので説明のしようがない。問題は男がその後、そのお金を使うかどうかの話です。お金は流通させるもの、使ってなんぼのものなのでいちいち「これは僕のお金だ!」と主張することはできません。いちいち名前書いてたら流通の妨げになります。ちなみに現在の法律では紙幣への罰則は特にありませんが貨幣の場合は貨幣損傷等取締法という法律に引っ掛かります。

 

果たして男は結局、誰のかもわからないお金を自分のお金として使うのでしょうか。それは彼の「積極的自由」によるでしょう。そして彼のお財布に入っていたお金は「消極的自由」なものなので彼しか使えないものだと考えることが出来ると思います。

 

ここで最初に”現代は”自由意志があると言った理由について説明します。まずは「歴史」に則って考えてみましょう。

 

最初に取り上げるのはヘーゲルという哲学者の考えです。ヘーゲルの考える「歴史」とはすべての人間が自由を手に入れるまでの進歩のことです。例えば古代奴隷制(第三弾で語った「人格」の形成がまだ行われていなかったとき)の人々は全く自由ではありませんでした。しかし、個人の内面の道徳と社会全体の規律である法律が止揚(2つの対立している主張を統合してより良いものにすること)することで自由が生まれると主張しました。今でも18歳以上の人達全員に選挙権が認められているのはその昔、まだ人口の数パーセントにしか選挙権が認められていなかった時代に市民が選挙権を主張し、法律が変わっていったこともこれに該当するでしょう。そして、歴史は人々の「絶対精神」によって支えられていると言います。絶対精神とは社会の中で教養を身に着けながら自分の中で行う弁証法止揚と同意)によって認識能力を持つことを言います。人々は絶対精神を手に入れて自由になりたいと考えることによって歴史を動かしてきたといいます。

 

一方、ヘーゲルのような精神的な話でなく、物質的なもので歴史は動いてきたと唱える人もいます。マルクスです。

 

マルクスは歴史を動かしているのは生産力の発展だと主張しました。人間は衣食住のためにものを生産し続けます。この生産活動のために人はその時代の技術レベルにあった生産関係を結びます。古代だったら主人と奴隷、現代だと資本家と労働者の関係が該当するでしょう。そしてその生産関係が土台(下部構造と言います)となり、政治制度や文化といった上部構造が発展していくということでした。技術が進歩すれば生産関係は変わっていきます。しかし、支配者はこの労働者たちを手放したくないため生産関係を維持しようと増大しすぎた生産力を押さえつけます。この生産力と生産関係に矛盾が起き、革命が起きるのです。自分たちは技術を手に入れたからさっさとこの支配者から逃れて独立しよう!という革命です。この革命は自由を求める運動と捉えることが出来るのではないでしょうか。

 

 私はどちらの主張も道理に合っているなと感じました。ここで一つ疑問に思った方はいらっしゃるでしょうか。何故、この人は歴史をいきなり話し始めたのだろうと。実は「自由」という概念は時代が作り出したものではないかと私は考えているからです。

 

スマイルさんが紹介していらっしゃった人権宣言は近代的な考えでできたものだなと感じました。それは何故かというと昔は支配関係というものがかなり強かったからです。どこの国でも同じで日本で例えると田堵と開発領主や御恩と奉公などが挙げられるでしょうか。その際、労働者側、奴隷とかは生まれてからすぐもうその人の人生は奴隷ということが決まっていました。つまり、奴隷には人権が認められていなかったのではないかと思うのです。というのも近代以前まで人間は全て労働力と捉えられていました。子供ですら小さな労働者という位置づけでした。子供が子供として保障されたのは18世紀以降のことです。何故国民の三大義務の一つに教育が挙げられているのかというと義務として制定しないと守らなという背景があるからです。また今でも発展途上国での子供たちがなぜ学校に行けず毎日働いているのかというと生きるためというのが大前提ですがその国ではまだ教育を受けさせる保障ができないからです。

 

平等という概念が生まれたのはかなり最近の出来事だということはわかっていただけたでしょうか。平等や自由というのは「個人」が確立したからこそ生まれた概念だと考えています。積極的・消極的自由もそうです。この様な印象から私は「自由意志」という考えそのものが現代的な考えだなと思いました。従って人間という存在が「自由意志」を生んだのではなく”現代”という時代がそうさせたのだと私は考えます。

 

またTwitterのタグを見てみたら決定論と比較していらっしゃる方を何人か見かけたので私も。決定論とは一切の事象は全てあらかじめ何らかの原因によって決定されているという意味です。つまり過去の行動などによって現在・未来の行動は決まっていて必然ですよ、ということです。もしこの説を採用するならば人間は全く自由ではなくなってしまいます。なぜならすべて決まりきったことに従っているということになりますからね。決まりきったことに従っているという決定論ですがある思考実験と比較できるのではないかと思いました。

 

「この世界は5分前に神が創造したものである」

 

何言っているの?と思われた方がいらっしゃると思いますがこれはラッセルという哲学者の「世界5分前仮説」です。まぁ本来は「心の分析」というラッセルの講義をまとめた本に出てくる仮説なので世界の在り方を述べたものではないのですがあえて言及していきます。この仮説は証明も反証もできないものと言われています。おかしいですね?確かに私は小学生の時にいたずらでAEDを開けて友達とその場から逃走した記憶もありますし、高校生の時に教室の黒板消しクリーナーを友達と壊し、担任のポケットマネーから支払ってもらったという記憶があります。いや、過去の私何やってるんだよ。ただもし、これらの記憶は全て神が5分前に創ったものだとしたら?そんなことありえるわけないだろって思いますよね、私もそう思います。

 

では、その証明をしてみてください。

 

できないですね?だって”過去はもう既に存在しない”ですもんね。仮に私の非行(笑)を撮った写真が出てきたとします。ですがそれも今現在写真として存在しているものにすぎないので過去に行ったものだと証明する手掛かりにはなり得ません。過去に起きたこととされている現象を今、再現することはできても過去自体を再現することは不可能なのです。

 

同時にこの仮説が正しいという証明もできません。理由は上と同じで過去は既に存在しないからです。また、もし5分前に世界を創造したというなら1分前に創造をした、10年前、1万年前、などいつ神は世界を創造したのか検証していかなくてはならない説が無限に湧いてきてしまいます。あくまでも定義上”過去”という概念があるにすぎないのです。

 

一方、「これは決定論的な主張なのではないか?」と個人的に思っている考えもあります。それはベーコンという哲学者の「イドラ」です。

 

ベーコンは知識はすべて経験によって得られると主張しました。けれども思い込みや偏見が正しい知識の修得を妨害すると言います。このような思い込み・偏見のことを「イドラ」と呼びました。このイドラは4つに分けて説明することが出来ます。

 

種族のイドラ

人間という種族共通に備わった感覚による偏見

洞窟のイドラ

育った環境による、狭い考え方からの偏見

市場のイドラ

人が集まるところでの聞き違いや噂話などの伝達ミスによる偏見

劇場のイドラ

有名人や偉い人の言葉を信じてしまう偏見

 

この様に様々なイドラを積み重ねていくことで人の価値観は歪んでいってしまうのかもしれません。イドラと自由意志に何の関係があるかというと例えばある罪を犯した人を罰する立場に自分はいると思って下さい。人々はその人を強く批判するでしょう。あまりにも酷い事件のため有名人まで声を上げ始め、その被告人を陥れるキャンペーンが全国的に展開されました。そして実はその被告人にあなたは幼少期いじめられていて恨みを持っていました。(実際の司法に私情は厳禁ですよ!)ついに裁判長であるあなたは被告人に罪を言い渡します。ところが、罪を言い渡した直後、実はその人は全くの無実だということが判明しました。あなたはあなたの自由意志に則って判決を言い渡したはずなのに何故そんな間違いを犯してしまったのか。それは集団心理による偏見、あなたはその被告人にいじめられていたことによる恨みの偏見、その事件について調べた時の証言の不正確さによる偏見、これらのイドラによって事実が捻じ曲げられていたのです。つまりイドラによって自由意志は侵害されるのではないでしょうか。そして過去に積み重ねてきたイドラによって行動が決まってしまうのなら確かに自由意志はないのかもしれません。

 

しかし、自由意志という概念自体、人間という種族に元来備わっているものではありませんでした。近代になってから生まれた概念ならば存在の定義さえあればいいのです。つまり、自由意志とは「近代以降に成立した個人に由来する概念であり個人の行動を自身が自由に決定する権利のこと」だと私は考えています。

 

さて、一気にいろんな人の考えを紹介してしまったので頭がパンクしてしまった方もいらっしゃるのではないでしょうか。このブログを書いている本人も休憩を取りながら書いている次第です。ですので一度、休憩をとってから次に進みましょう。

 

2.自由意志はあるか?

 スマイル:「自由意志」あると思いますか?

 

 Nakamu:あるでしょう。

 

スマイル:その根拠は?

 

 Nakamu:僕が今までやってきた・考えてきたこととか。

 

スマイル:例えばNakamuはワイテルズを始めようと思ったわけだがそれはNakamuの自由意志であると。

 

 Nakamu:まぁ、最終決定権的なことを言えば自由意志と言えるでしょう。

 

スマイル:確かに最終決定権っていうのは自由意志の最後の砦だね。例えばじゃあNakamuYouTubeとかのマイクラの動画を観てやりたいと思ったわけだね。それが無かったらもしかしたらワイテルズを始めたいと思わなかったのかもしれない。

 

 Nakamu:僕があの時にYouTubeでマイクラの実況を観ていなかったらワイテルズを作りたいと思わなったかもしれない。

 

スマイル:でも、それを観たとしても始めるかどうかはNakamuの意志だということだね。それは何かに完全に誘導されたわけでなく最終的にはNakamuの自由意志で決めたと。その自由意志であるかどうかっていうのはいろいろと学者たちも探求してたわけなんですよ。でも、一つこういうある実験があったんだけど。うろ覚えだけど被験者が椅子に座らされて画面にある点か何かが見えたらマウスのボタンをクリックするように言われたらしいんだよ。その被験者たちはその実験をやるんだけど。それと同時に研究者が脳に電極か何かをつけて脳の電気信号を読み取ったらしいんだよね。それで実験終わるじゃん。被験者がボタンを押そうと思った時に申告するの。ということはその人がボタンを押そうとしたと思った時ってわかるじゃん。でもどうやらその脳の活動を調べてみると、その人がボタンを押そうとした前にすでに脳内に動かそうと思う前兆の反応があったわけよ。これはどういうことかというとその人が行動をしようとする前に行動をすることが決まっているってことなんだよね。つまり自由意志は思い込みであるという説がある訳なんですよ。これに関してどう思いますか?

 

 Nakamu:何をもって「意志」という言葉で括るかによるよね。僕が今パッって聞いて思ったのは決まっているという考え方より無意識下、要は「手を挙げる」という行為は自分の意識下にあることじゃん。それ以前の無意識の段階の判断も例えばバスがつっこんできたときにさ、右よけようと思うよりも先に体が右によけたりするじゃん。それって別に自分の無意識下が勝手に行っていることだけどそれも一つの個体から生まれている行動の原理だとするならば今回の場合は自由意志とは関係ないけど無意識下の行動であったとしても最終的にその無意識を享受してるってことになるから。

 

スマイル:無意識の行動って自分の意志でコントロールできないよね。

 

Nakamu:確かに。

 

スマイル:それって自由意志がないんじゃないの。

 

 Nakamu:確かに。という説だよね。それは納得できるわ。

 

「意志」と「意識」を混同しているなという印象を受けました。辞書を引いてみたのですが意志とは理性による思慮・選択を決心して実行する能力。知識・感情と対立されるものとされ、併せて知・情・意というとあります。一方、意識とは認識し、思考する心の働き。感覚的知覚に対して、純粋に内面的な精神活動。今していることが自分で分かっている状態とありました。この結果から分かるように無意識の行動は意識に反映されていないというよりもそもそも意志は意識的なものだからそこに反応できるわけがないと私は考えました。そもそも「志」という漢字は何か意識の「方向」があるためその限りでないと思うのです。

 

スマイルさんが紹介していた実験はリベットという医師が行った実験です。しかしその後、ドイツのベルリン大学付属シャリテ病院で行われた実験によってわずかに反証されました。自由意志は確かに存在すると証明されました(ただし、0.2秒だけ)。ですがこの実験で私が注目したのは結果ではありません。この反証実験に関する記事で興味深い文章を引用します。

 

とくに興味深いのは2008年に発表された研究で、自由意志は幻想だという情報を与えられた被験者は、モラルに反する動向を示すことが多くなるということである。今年2月に発表された最新研究では、人は自由意志の存在を疑うと、不正行為に走り、他人に協力することをやめる、といった傾向が強まることも報告されている。

どうやら人間は、自由意志への信念を捨てると、自分を倫理的責任を問われる存在だとみなさなくなる傾向にあるらしい。決定論を受け入れると、われわれは心の奥底にある闇の部分におぼれてしまうようだ。

引用元:WIRED 「「自由意志」は存在する(ただし、ほんの0.2秒間だけ):研究結果

 

つまり、自分の決定権は全て自分の脳の反応に過ぎないものであり意識などはないと言われた人たちは絶望し、非行へ走ってしまう傾向にあるということです。これは与えられた情報によって絶望するという選択を取った自由意志の表れと言えるのではないでしょうか。

 

「自由意志」は科学的根拠云々に由来する問題ではないと個人的には思うのです。なぜならそれはその人が行動するときにとる選択の自由さを示す権利であると私は解釈しているからです。突発的な行動(それこそ向かってきたバスをよけるとか)のことは「自由意志」とは呼べないと思うからです。それは人間というか動物に染みついている脊椎反射的なプログラムとして組み込まれている防衛反応に過ぎないと考えています。ですので私の考え方としてはNakamuさんの考えに近いのかなと思います。どこまでを「意志」として括るのかで話は変わってきます。私としては自分が認識できている世界でどう行動をとるか判断しそれを遂行する機能を「意志」と考えています。

 

また辞書で自由を引いてみると一般的には、責任をもって何かをすることに障害(束縛・強制など)がないこと。自由は一定の前提条件の上で成立しているから、無条件的な絶対の自由は人間にはない、と出てきました。ちなみに意志の自由で引くと自分の行為を自由に決定できる自発性があること、と出てきました。つまり自由とは「あるルールの中で責任をもって何かを成す選択のこと」だと考えました。私は自分の中で自由と意志の定義を確立した時、そこには構造の二重性が隠されているのではないかと思い立ちました。構造の二重性とは一言でいうと条件であると同時に結果でもあるということです。

 

例えば集団スポーツに例えてみましょう。個々のプレイヤーにはそのゲームのルールに従うという義務が課せられています。ルールを破るとペナルティが付いたりゲームから退場しなくてはならなくなったりします。しかし、逆に考えるとそのルールを守るから感動的なプレーが生まれるというわけです。そのゲームをどう攻略しようかという”戦略”が生まれてくるのです。ルール(社会)が個々のプレイ(個人)を可能にし、個々のプレイ(個人)がルール(社会)を存続させ続けるのです。

 

自由意志もこれと同じだと私は考えます。社会が個々の行動を自由にさせることを可能とし、個々の行動が社会を存続させるのだと。だから0.2秒しかない自由意志というよりは行為のことを示すのかなと思います。私が先ほど提示した「近代以降に成立した個人に由来する概念であり個人の行動を自身が自由に決定する権利のこと」という個人的な解釈を更に噛み砕くと「個人がその行為を思い立ち行動する権利及び実行した行為のこと」なんじゃないかなって思います。

 

スマイル:でしょ?というのが一つあると。というとあれ?疑わしくなるんじゃないか。まぁ、更に考えていくとこういう例があるんだけど。とある銃乱射事件を起こしてしまった犯人がいたらしいんだけど。事件が起こって初めてわかるんだけどその人は結構日記をつけていたらしいの。それによると最近なんか自分が抑えられないみたいな。如何にかなっちゃいそうだみたいなことを日記につけていたらしくって。で、もう駄目だということで事件引き起こしたらしいんだけど。その犯人は射殺されちゃったらしいんだけど。その遺体を解剖してみると脳の前頭葉かどこかにでかい腫瘍があったらしいの。前頭葉ってさ理性とかを司る場所なんだけど。そうなるとその人は事件を起こしたんだけどその人に責任はあるかって言われたらどう?その事件は脳に腫瘍があってそのせいでやっちゃったんだよ、多分。もしそれがなかったらその人はやってなかったんだけど。その人に責任は問えるのかってことなんだよね。それはどう?

 

 Nakamu:仮にその人が存命だとして逮捕されるなりして罪の有無を問われたときに多分日記が見つかるかは別として本人の供述として日記に書いてあることと同じことを言う可能性が高いじゃない。それで言ったらそれは責任能力がないと判断されるんじゃない。医学的観点で見たらね。

 

スマイル:彼はその時その事件を止める自由がなかったからそれは責任に問わないと。でもこれって今回はたまたまそのわかりやすいこの腫瘍のせいだってわかったけど。人間って生きてるうちにいろんな環境の影響を受けるわけじゃん。そう言ってしまったら例えばその人の脳にはっきりとした理由がなくても。例えばもしこの時この事件を起こした犯人は幼少期から虐待を受けていなければこんな事件を起こさなかったかもしれないじゃん。でもそれって多分その人は今の昌世だと普通に罪に問われちゃうよね。でも幼少期のあんまみんな知らない虐待と脳の腫瘍の影響って何が違うの?と言われたらわかんなくない?程度の問題になるよね。

 

Nakamu:濃度が図れる度合いじゃない?近ければ近いほど関与の率が高いってなるし。幼少期であれば生育した段階で何かしら薄まるじゃないけど別要因が入ってくる可能性を考えるとその関与している割合が低くなるんじゃない?

 

スマイル:でも結局はっきりとその両者を分けるものがあるかと言えばなかなか難しいよね。というわけでその自由意志の行動もどっからが自分の自由意志の行動でどっからがその避けられない環境の影響による行動かというとそれを分けるのは可能なのかという。可能でないとするならそれはそもそも「自由意志」などないという結論に至る気がするのですが。そうなってくると犯罪を犯した人に対しては「更生」させるのではなくて「治療」するということになってくるんだよね。SF映画っぽくなってくるけど。

 

私は腫瘍によって行った犯行だろうと幼児期の虐待が起因したものだろうと本人には責任が発生すると考えます。なぜならその事件が起きたという「事実」と原因は切り離せると考えているからです。またどのような背景があろうとその事件が起きた「事実」は変わらないですし、あくまでもスマイルさんが例にあげた事件には情状酌量の余地があるにすぎないからです。

 

あくまでも日本の司法に則って考えていきますが日本の刑事責任能力では「心神喪失や十四歳未満の者には不処罰を(刑法三十九条第一項、四十一条)、心神耗弱者にはその刑を減軽する(刑法第三十九条二項)」とされています。身体的損傷等による責任能力の有無については特に見当たりませんでした(私が見落としている可能性も十分に考えられますが)。刑法第三十七条「自己または他人の生命、身体、自由または財産に対する現在の危難を避けるため、やむを得ずにした行為は、避けようとした害の程度を生じた害が越えなかった場合に限り、罰しない。その程度を超えた場合は情状により、その刑を軽減し、又は免除することが出来る」という条文(一部、文章変えています)がそれっぽいかなと一瞬思ったのですがまぁ、法律の専門家でもない一素人なのでこの辺の判断はどうにもなりません。また、今回「脳に腫瘍がある」と犯人が自覚していたかどうかは明言されていないので判断が出来かねます。あくまでも犯人は「どうにかなっちゃいそうだ」という悩みを持っていたにすぎず、それが脳の腫瘍による影響だったと自覚していたかどうかは言われていないですもんね。また情状酌量は「犯罪の情状に酌量すべきものがあるときは、その刑を減軽することが出来る(刑法六十六条)」と定義されています。

 

スマイルさんが例に取り上げている銃乱射事件を例にとって考えてみましょう。脳に腫瘍がある事実をその犯人自身が知っていたかどうかは言われていないのでわかりませんが自覚していた場合と自覚していなかった場合の二パターンに分けて考えてみましょう。繰り返しますが法律などには全く詳しくない一個人の見解です。

 

犯人が脳に腫瘍があると自覚していた場合は完全に故意なので責任能力もある犯罪として成立すると思います。しかし、自覚がなかった場合、これは刑法第37条が適用されるのではないかと思います。「どうにかなっちゃいそうだ」という意識が自身に対して実害を出した場合。精神の錯乱が一番予想されると思うのですがその実害よりも人の命を奪う可能性があったという損害の方が圧倒的に大きいからです。それでもその混濁した意識の中で行われた犯行なので情状酌量の余地があるに過ぎないと思います。次に幼少期に虐待を受けていた場合による犯行だったと考えてみます。幼少期に行われた虐待は人としての人格形成が行われる大切な期間です。どんなときも虐待は許されないことですが特にその後の人生を生きる上で大切な時期に人格を否定するような虐待という行為はやはりその人に悪影響を及ぼすでしょう。しかし、それが事件を起こすきっかけになろうとも責任能力はもちろんありますしあくまでもそれは罪の計量を推し量る判断材料の一つに過ぎません。

 

つまり、どんな要因があろうともその事件は起きた事実は変わりないですし、責任はもちろん伴うと私は考えています。

 

また、スマイルさんの自由意志がなければ責任の取りようがない。だから犯罪を起こした人には「更生」ではなくて「治療」なのではないかという考えに違和感を覚えました。何故ならそもそも目的が違うのでそこに自由意志を介在して考えられないからです。今回は腫瘍と幼児期の虐待に分けられていますがどちらも「原因」としてカテゴリされますし分ける必要性はないからです。どちらの或いはどちらともが原因だった場合でも「責任」は生まれます。幼児期の虐待という避けられない環境だったとしてもその環境の中で選択肢はかなり限定されますが「生きる」という活動は自由なものでなくてはならないからです。これだと「例えば人に殺された人は自由を奪われたのだから自由なんてなくないか」と言われるとおもいます。その通りです。それは避けられない環境下にいたと定義することが出来るでしょう。不平等な考えで私自身も考えに納得がいっていないのですが今のところ「運が悪かった」としか言えないです。生命はいつ死ぬのかわかりません。ましてや同種族で生きるか死ぬかの問題以外で殺しあうなんて考えられないでしょう。お金欲しさに人を殺した。あの人の隣に私がいたいから邪魔者を殺した。殺すことが俺の仕事。なかなかこんな私情で殺す種族はいないです。他にも天災や不慮の事故、病気、様々な理由で人は死んでいきます。それはもうどうしようもない。「死んでしまうものは死んでしまうんです」そこに自由意志は介在できません。だから私は違和感を覚えたのかもしれません。ここで家庭裁判所における少年事件の処分を例に取り上げてみましょう。

 

家庭裁判所が少年に対して行う処分は、非行を犯した少年を改善・更生させて、再び社会に迷惑をかけないようにすることです。そのため少年の身辺調査など「どうしてその事件が起こってしまったのか」という理由の追求を主としています。信じられないかもしれませんが世の中には一般常識を親から全く教わらない子もいます。育児放棄・虐待などでそのまま放置され育ち、その環境下でどうやって生きればいいのかわからない子がいます。どうしてモヤモヤしてしまうのか自分の言葉で表現できない子もいます。そんな状況の中でどう調査を行っていくのか裁判所の公式ホームページから引用します。

 

少年事件は,少年自身の性格や行動の問題だけでなく,その背景に少年を取り巻く家庭環境や社会環境など様々な要因が複雑に絡み合っていることが多く,非行のメカニズムを的確に解明した上で,その少年の再非行を防止する手立てを検討する必要があります。そのために家庭裁判所には家庭裁判所調査官が置かれ,少年にとって適切,妥当な処分を選択できるよう調査を行っています。

引用元:裁判所

 

つまり、そもそもの目的が「更生させること」なのです。たとえ個人の取り巻く環境がどんなに劣悪でも犯行を起こしていい理由にはなりません。犯行を行う選択肢以外なくともそれは「責任」が伴うのです。そのため個人を教育し更生することに重きを置かれています。「治療」という言葉では言い換えられないですし、行えないです。ただ、過度な教育は「洗脳」を引き起こしてしまう可能性もあります。そのため、一人一人と慎重に向き合う必要があるのだと私は思います。

 

「無敵の人」という言葉をご存知でしょうか?なろう系や俺TUEEE‼とかではないです。無敵の人とは失うものが何もない人のことです。失う家族も財産もない、地位や職もないので社会的信頼がそれ以上墜落することもない。したがって一般の人を巻き込んだ犯罪を行うことに何の躊躇もないのです。この人の場合、罪に責任は生まれるでしょうか?本人に責任の意識が芽生えるかどうかは別ですが社会的には責任が生まれます。なぜならその人はすべてを失ってもなお社会に属している状態だからです。まぁ、その人は社会の属しているという意識はない可能性が高いと思いますが。こういう人の場合も「治療」ではなくやはり「更生」という処置が適切なのではないかと思います。

 

 先ほど、私は生死を例に自由意志が介在できない状況を説明しました。罪と罰も同じことが言えるのではないでしょうか。つまり、どんな行動をとったとしても責任は生まれると私は考えています。

 

Nakamu:ロボトミー手術(外部から前頭葉を切り離すことでヒステリーを抑えた治療法。主に統合失調症うつ病へ効果があるとされていたが感情が欠如される可能性と投薬による治療法が確立されたため現在は行われていない。治療方法グロかったもう調べたくない)について一時期調べてた時期があって。

 

スマイル:そうなるとそれが完全に実現されるということは自由意志を認めなくなったということなんだろうかね。

 

Nakamu:うーん、自由意志。認めなくなった?・・・難しい。

 

スマイル:今まで「自由意志」について話してきましたが厳密に考えると科学者とか物理学者的に考えると人間の体ってさ原子とか分子の塊じゃないか。それが総合作用してるわけじゃん。例えば人間のあらゆる行動も要はその物質の総合作用の結果じゃん。そこにどこに自由意志が介在するの?って考えるわけよ。例えば自分が自由意志で今、手を挙げましたっていうのはそれテレパシーで手を動かしているって言ってるのと同じことだよねって考えるんだよ彼らは。だって手を挙げたっていうのは要は脳に電流が流れてそこから筋肉に指示が行って筋肉が収縮して手が上がっただけじゃん。そこのどこに自由意志があるのっていう。最初のその脳に電流が行ったのが自由意志だって言ったけどそれは何かコップを見たとしてコップから出た光が目の網膜に入ってそっから電気信号が脳に行ってそのままそこから脳の中でコンピュータが処理するかのように電流が発生してそこからその電流が筋肉に行ってコップを取ったと。そこに自由意志なんてどこに入ってくるのっていうのがあるんだよ。これに関しては。

 

Nakamu:いやぁ、難しい問題だ。人工知能とかにつながってくるなその辺の話は。結局意志っていうものがどこから生まれているのか。

 

スマイル:結局意志というのは自分がこう思ったからこうしたんだという主観的なものじゃん。それは絶対に科学的に証明することはできないんだよ。科学は客観的なものを取り扱う学問だから。結局俺たちは自由意志があるかどうかは自分で考えなくてはいけない。自分が自由意志があると思えばいいんだ、それで生きていこう俺たちは。

 

Nakamu:話を聞いててさ、意志が何によってこう生まれるのかって考えていたんだけど。思ったのが多分人間じゃなくてもさサルにもライオンにも意志はあるでしょ。そう思うことはできるじゃん。じゃ僕らとライオンの共通点って何だろうって思ったの。そしたら「生きてる」ことだなって思ったの。でも「生きてる」っていうのは難しいじゃん。それで置いたときにじゃあ微生物、ミドリムシとかああいう微生物たちは意志があるのかと思うわけですよ。アメーバは何の意志をもって分裂しているのかというね。意志をもって分裂しているのか、逆に体に組み込まれているのかプログラムとして。わかんないじゃないですか。もう一つ気になっているのは植物に意志があるのか。あいつらも生きてるじゃん。水は生きてないじゃん。でも植物は生きてるじゃん。同じ動く変わりゆくものとしてこの地球上に存在しているのになぜ誰も水に生命を感じず植物に生命を感じるのか。

 

スマイル:昔の宗教でさアニミズムってあるじゃん。あらゆるモノに命が宿ってるみたいな信仰があるじゃん。そういうものからするとあらゆる物質に意志があるんだよ。つまり境界線は人間が決めたものだから。こっからここは生きている・意志がある、こっから先は違うみたいなね。

 

Nakamu:今、僕の話をそういう信仰を持っている人に話ししたら「いや何言ってるの水も生きてるし」って言われて終わりなんだね。勝手に俺が植物は生きていて水は生きていないって判断しているだけだ。日本ではわりとそれが通説っぽい。別に誰もトイレの水に可哀そうなんて言わないけど花踏んだら可哀そうって言う。

 

スマイル:結局は全部人間の思い込みなんだよ。だからどうするべきかは自分で決めよう。

 

私は先ほど自由とは「あるルールの中で責任をもって何かを成す選択のこと」だと定義しました。では公的権力がない状態、つまりルールとか権力とかが一切ない世界を想像してみましょう。ホッブズという哲学者の考えでは万人が万人の自由を奪い合う喧嘩、戦争がはじまると予想しました。これでは自由は守れません。そこでお互い喧嘩をしないように契約を結ぶ必要があります。ではその喧嘩をしないという契約をもし破ってしまったら誰が取り締まるのでしょうか。喧嘩を止めるには仲裁者が必要ですね?その役割を果たすのが王などの絶対権力だと彼は主張しました。旧約聖書に出てくる恐ろしい海獣リヴァイアサンに例えられています。

 

次にフーコーという哲学者の考えを例にします。フーコーによると「人間」という概念もたかだか19世紀に誕生した最近の発明に過ぎないです。何故なら17~18世紀ごろは生き物を見ためで区別・分類していました。そこから19世紀に生き物の器官の機能に関心が移行し、「生命」という発想が生まれ「人間とは」なにかという”科学的な進歩”が顕著になりました。けれども彼は人間の終焉は近いと断言しています。なぜなら人間は社会の構造に縛られ生きていることが判明したからです。人の目には見えない生の権力、簡単に言うと人の生に介入して管理しようとする近代的な権力が無意識に私たちを社会に適合するように訓練しているのです。

 

 今は国民一人一人に主権が存在していますがやはり司法、行政、立法の三権で社会秩序が保たれています。それは自分たちの自由の範囲を定めるためです。フーコーの考えでは社会はしがらみとしていましたが私は社会を「枠組み」だと捉えています。社会という枠組みの中でどう行動しようと考え、実行するのかそれが私にとっての自由意志です。従って繰り返しになりますが自由意志は現代には存在すると考えています。

 

草花や動物たちに注目するとはさすがNakamuさんはセカオワファンだなぁと思いました。「虹色の戦争」という曲に引っ張られたのかなと個人的には思いました(笑)。フーコーの考えに則りますがもし「人間」という概念が19世紀に生まれたに過ぎない概念だろうとそうでなかろうとスマイルさんが仰った様なアニミズム的思考は適用されるでしょう。なぜならスマイルさんも仰っていましたが生命があるかどうかは個人の信仰に依るからです。まぁ、人間以外の生命に意識があるかどうかこればかりは証明できませんが。(この様な絶対的に証明できないような難問をアポリアと言います)

 

私は以前肉体はあくまでも精神の入れ物としか考えていなかった時期がありました。肉体がある限り自由にはなれないと考えていました。今はそれもそうだけどじゃあその肉体を使ってどう行動するのかというのが肉体的自由なのかなって思います。

 

「永遠の相の下」という個人的に好きな考え方があります。これはスピノザという人の考えなのですが彼は人間には自由な意志はないと考えています。何故なら人間は神の一部なので、神の考えの下に動いています。神の一部とはどういうことか。今でも有名なデカルトの名前は知っている方が多いと思います。彼は意識を発見した(『我思う、ゆえに我あり』ですね)あと、意識と身体は別に存在していると考えました。しかし、スピノザは「それではなぜ悲しくなると涙が出るのか説明できないじゃないか!」とこれに反論。この疑問を解決するために意識も体も自然も全てひっくるめて一つの神と考えました。スピノザによると人間は自然の一部、そして自然は神そのものなのです。つまり、その中に含まれている私たちの精神と身体も神の一部です。忙しいブラック会社社畜もハイハイする赤ちゃんも自分の意志でそうなったのではなく行動の原因が複雑で自分ではわかりにくくなっているだけだと言います。身に起きていることは自然現象の一部であり、永遠の中の一コマに過ぎません。けれども、あなたがいないとその一コマが成り立たないのです。つまり私たちの行動は永遠の一部であるが神は私たちに何を望むのか、それを考えるのが人の幸せであるとそう主張しています。

 

最後に自分と反対の意見を取り上げてなに混乱させているんだと思われたかもしれません。ただ、気の持ちよう的にこう考えるとだいぶ楽だなと思ったので取り上げてみました。私は自分の行動には責任が伴うと散々主張してきました。ですが、正直疲れませんか、この考え方。何も「自分の行動は結局神の一部なんだからじゃあなにやってもいいや!」と投げ出せばいいってものではないです。ただ、物事の原因が複雑に絡み合ってその行動を起こしたのならばその原因を100パーセント解明することは無理ですが自分が生きやすく「理解」することは可能なんじゃないのかなと思います。そして私たちは永遠の一コマに過ぎないのです。ならば自分がどう生きようが全て自然に還元されるのだから自由に生きてみようってちょっと気が楽になった気が私はしました。

 

書いてて思ったんですけどむちゃくちゃ妖しい文章書いてますね、私(笑)。ちなみに私は特にこれといったモノを信仰していません。あくまでも考え方として面白いなと思ったものを取り上げているに過ぎないです。

 

おまけ.何のために考えるの?

Nakamu:一つ質問。根も葉もない話だけど何のために考えるんですか?哲学というものは。概念を考えるというのは。一体どういった目的で。

 

スマイル:それはまぁ、自分がどう生きるかを決めるためじゃないかな。人間はさ、迷うんだよ。で、正解はないんだよ。だから迷うんだよ。だからこそ自分で1個決めればいいんだよ「これは正解です」って。決めちゃえばいい。そしたらあとは楽になる。それに従って生きればいいから。とはいえそれを盲信するのはよくないけどね。だからそれを一つに考えるとそれが指針になるじゃん。それを元に考える。何か一つ基準がないと何にも考えられないからね。だから俺はより善く生きるために考えてるということですね。

 

Nakamu:学者たちはなぜ?彼らも悩んでいるの?

 

スマイル:おそらくほとんどはそうだろうね。

 

Nakamu:割と自己満なのか、あの世界は。科学って他者のためにやることが多いじゃない。自己満足の部分もあるけど最終的に還元されるのは割と他者になることが多いじゃない、科学の世界って。でもさそれに比べて哲学のジャンルって還元されているかどうかの判断も難しいけど自己満感が強い。

 

スマイル:古代の人たちがいろんな思想を人々に知らしめたことで自由も生まれ、人権とかいう概念も生まれたわけじゃん。そうするとさ自由意志とかも国民が主権が握るようになったのってそういう概念を考え続けた彼らのおかげといえばまぁそうだよね。

 

Nakamu:それは完全に僕の認識の浅さだね。科学と同等の価値を生み出していると考えていいと思うよ。

まとめ

自由意志があるかどうかは自分で考えろ

 

今回の議論は今までで一番モヤモヤしてしまった議論かもしれません。なんか、単純に恵まれた環境にいたんだなぁというのが伝わってきました。羨ましい。別にルサンチマンになっているわけではないですよ!まぁ、そう見えても仕方はないですけどね(笑)。

 

結局はその時代の主義に流されて生きているんですよ。資本主義がなければ自由という選択肢の幅はもっと狭かったでしょう。

 

そもそも哲学の中に科学も内包されているといっても過言ではないと思うんですけどね。元々の学問の起点は哲学と数学なわけですし(個人的な見解)。いや、やはり過言か?まぁ、いいや。

 

哲学の意義についてTwitterのタグで語っていらっしゃる方がいたので詳しくはその人のツイートを見てください。まぁ、その人の補足的なことは書けるので書いときます。

 

当時の市民の関心は自然から法律や規則という政治的な関心でした。そこでソフィストという哲学者(職業教師)の登場です。ソフィストの本業は「弁論術」を教えることでした。言ってしまうと詭弁です。青年たちは高いお金を支払って政治家になるために必要な弁論術を身に着けました。でも彼らはあくまでも私利私欲のことしか考えていませんでした。どうしたら高い税金を国民からとれるか、どうしたら自分が裕福になれるのか。そんな欲がばれないようにうまく言いくるめるのが勝ちとされていました。

 

「いやいやいやそんなんじゃいつまでたっても真理にたどり着けないわ(笑)」

 

となったのがソクラテスです。詭弁なんか唱えてないでまずは「自分は何も知らない」ことを自覚しようぜ!ってなって後はまぁ……そんな感じです(笑)。

 

こう思うと哲学って恵まれているなと思いませんか。ソフィストが出てくる前も元々は貴族たちの暇つぶしだったし「自分たちが考える時間を確保するために仕事とか雑用は奴隷にやらせよう」というのが哲学の始まりだったりします。(諸説はあるかも?)なので哲学は正直、怠惰から始まったんだなという印象が強いです(笑)。まぁ、かくいう私は哲学好きなんですけどね。

 

今回の議論でふと思ったのは人は自分が生まれた環境というか不平等から目をそらしているなということです。あの例の銃乱射事件の責任の所在について書いた次の日、京アニ事件の犯人が生死の境を彷徨ったことについてバズってるツイートが私のTLに流れてきました。しかし、私はそれに違和感を覚えてしまいました。なぜならその文面はその事件を通した「社会の生きにくさ」を言っていたはずなのにリプ欄を軽く見たら被疑者への責任の所在は社会にあるという論調が垣間見えた気がしたからです。確かに彼をあのような凄惨な事件に向かわせたのは彼を取り巻く環境だったのかもしれません。しかし、だからと言って最終的に犯行を行ったのは彼です。個人の資質と社会、その両者の問題だったのかもしれません。ただ、私たちが変えられるのは社会だけです。個人を変えることはできません。だから社会の方に言及していたのかもしれませんね。しかし引き金を引かせた要因は社会だけれどそれを「かわいそう」という一言でまとめてしまえばじゃあ被害の遭われた方々はどうすればいいんだ。不平等の中でどう生きればいいんですか。資本主義社会によって経済格差はどんどん広がっています。これは戦争などの人災が無くなった平和の証拠なのかもしれません(コロナウィルスで非日常を生きていますがこれはたぶん人災とはまた別なので)。経済格差がどうしようもないのなら「みんなが平等」を目指すのでなく「個人の幸福」が基準にならざるを得ない社会体制なんだろうなと私は考えています。

 

医療従事者の方は本当に素晴らしいですし、今回の治療が今後ひょっとしたら誰かの命を救う一つの治療例になったかもしれない。その功績は称えるべきですし「人殺しを治療しやがって!」と糾弾する行為は卑劣だと私は思います。どうしたってクズ人間はいます。クズと言われて思い浮かぶ方がいらっしゃる方はもう既にクズに出会っているでしょうし、思い浮かばない方はまだ出会っていないでしょう(小泉構文みたいになっちゃった)。じゃあ医療は「こいつクズだから治療なんかしない」なんて選択をしたらどうなるでしょうか。

 

レヴィナスという哲学者の考えで 自分の解釈の中に全てを取り込んで、自分中心の世界を作っても主語なき恐怖(イリヤと言います)から抜け出すことはできません。イリヤとは例えばあなたの大切な人がお亡くなりになられたとしましょう。それでも世界は動くし、時間は進んでいきます。その人がいなくなっても日常が進んでいく漠然とした恐怖のことを言います。自分中心の世界を作っても結局は自分が理解できるものの範疇で世界を構築しているからです。その漠然とした不安からは逃れられません。レヴィナスにとってイリヤから抜け出すカギは他者の顔でした。他者の顔とは自分の解釈した世界に取り込めない、その外側にいる無限の存在です。その顔と目が合った瞬間、その顔と関係したと言えます。例えば、道でコンタクトを探している人がいてその光景を見たとします。その瞬間、一緒にコンタクトを探すという決断をしようが無視しようがその光景を見てしまった時点であなたはもうその人の顔と関わっているというのがレヴィナスの考えです。つまり顔を見てしまった段階で他者に倫理的な責任を負わざるを得なくなります。そしてその顔に責任を負った時、人はイリヤの恐怖が渦巻く全体化された自分中心の世界を飛び越え、無限の彼方へと向かうことが出来ると考えました。

 

これは個人の生き方に関する言及だと思うのですが今回は医療に当てはめて考えてみます。急患として運ばれてきた被疑者(当時やけどだらけで身元がわからない状態)の顔を認識してしまった途端、医療従事者としてその方々は倫理的に責任を持たざるを得なくなりました。何故なら存在を認識してしまったからです。ビジネス的なやさしさに過ぎないですが彼らは懸命に治療を行うでしょう。何故なら彼らは治療技術を持っており、それが彼らの仕事・義務だからです。そこに私情を挟むことはできないです。なのにその治療行為を糾弾するということは彼らの義務を侵害することなのではないでしょうか。

 

ここからは個人的な哲学への考えになりますが私は「区切りをつけるため」に哲学に取り組んでいます(といっても趣味程度に独学してるだけですけどね(笑))。「区切りをつけるため」とは一体何言っているんだと思っていらっしゃる方のために説明します。

 

例えば「学問」に例えるとどの分野を学ぼうとしてもその限度ってないじゃないですか。全ての学問の基本を押さえることができても全ての学問を修めることは不可能です。また、ある1分野を極めることはできても全てを知ることは不可能です。

 

何故なら現時点で解明されていることしか人間は知りえないし人間の学習能力には限界があるからです。学習能力は個人に依ります。つまり自分はどこまで知ることが出来るのか、どこまで考えることが出来るのか。それを知りたくてもしかしたら私は考えているのかもしれません。

 

今、技術はどんどん進んでいっています。しかし、そこで発生する問題は「どこまで進めていいのだろうか」ということじゃないでしょうか。これからはその限度を考える時代になるんじゃないかなって思います。

 

~蛇足~

私は何か話をする時、できるだけわかりやすく説明するようにしています。何故なら難しい言葉を並べても理解されなかったらそれは説明とは言えないからです。噛み砕いて説明できるようになって初めて理解したということなのかなと私は考えています。確かに難しい言葉を使いたくなる気持ちはわかりますし、一言で説明した方が圧倒的に楽です。ただ同時に私は言葉や考えは出会うものだと思っています。ですのでやけに多くの人の考えや用語などが出てきていたと思います。それはもしこのワイテルズさんの企画で興味出た方がいらっしゃったらちょっと調べてみたりとかする手助けになればいいなと思っているからです。まぁ、今回はあまり説明してないかもしれませんが(笑)。

 

あと、この企画では結構メンバーの方と対立した(?)考え方をすることが多い自分ですがあくまでも一個人の考えなので叩かないでください。単純に泣きます。

 

ちなみに最後にスマイルさんが仰っていた「善く生きる」はソクラテスの有名な考え方である「徳」(アレテー)です。第三弾で書いた気がしますがよろしければ調べてみてはいかがでしょう。

 

~参考資料~

〇田中正人「哲学用語図鑑」プレジデント社、2015年

哲学用語図鑑

哲学用語図鑑

  • 作者:田中正人
  • 発売日: 2015/02/26
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

新村出広辞苑第六版」岩波書店、2008年

広辞苑 第六版 (普通版)

広辞苑 第六版 (普通版)

  • 作者:新村 出
  • 発売日: 2008/01/11
  • メディア: 大型本
 

〇出口剛司「大学4年間の社会学が10時間でざっと学べる」KADOKAWA、2019年

大学4年間の社会学が10時間でざっと学べる

大学4年間の社会学が10時間でざっと学べる

  • 作者:出口 剛司
  • 発売日: 2019/02/01
  • メディア: 単行本
 

 

~参考サイト~

〇【TVCM】「Thinking Man」篇 第2話 <60秒>【三井住友カード公式】

https://m.youtube.com/watch?v=4E2P6sxDBAE

決定論と自由意志

http://tanemura.la.coocan.jp/re3_index/2K/ke_determinism.html

〇ART+LOGIC=TRAVEL

https://www.hasegawadai.com

〇WIRED

https://wired.jp/2016/06/13/free-will-research/

電子政府の総合窓口e-gov

https://elaws.e-gov.go.jp/search/elawsSearch/elaws_search/lsg0500/detail?lawId=140AC0000000045#253

〇EPILOGI

https://epilogi.dr-10.com/articles/1754/

〇裁判所

https://www.courts.go.jp/saiban/wadai/1801/index.html